<資料2>
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奈良町(ならまち)
 近鉄奈良駅を降り、地上に出ますとすぐ東側に若草山、奈良の奥山につながる山の裾野に奈良公園が広がっています。
ここには皆さんご承知のように東大寺や興福寺、春日大社など、人類の宝というべき世界遺産の数々が散在しております。
これらの古代からの建造物がまだ比較的健全な姿と環境をとどめ、守られているのは決して偶然ではありません。今回訪れる「ならまち」も日本経済の高度経済成長期の大きなうねりの中で危うく消えてしまおうとしていた町並みでした。
興福寺の横の階段を下りますと亀のたくさん泳ぐ猿沢の池があります。
この池の南側に広がる千年の歴史を持つ古い家並みが「ならまち」であります。
この町の南に元興寺(がんごうじ)という小さなお寺があります。この寺院はわが国最古の寺といわれる飛鳥寺が当時の平城京に移設されたもので単独で世界遺産に指定されるほど建造物や瓦など研究者には宝庫といわれる数多くの文化財を有しております。実はこの寺は当時、東大寺に比肩するほどの広大な面積を占めた巨大寺院でした。現在の「ならまち」は当時のその境内に当たる場所にあるわけでつまり地域住民の住まいが境内に少しずつ広がっていったという訳です。
東西約1km南北約1kmに及ぶ広い地域に小さな古い長屋の広がる町並みですが現在足を一歩踏み込むと、そこには菓子舗、和紙の店、筆屋、小物屋、小料理屋や粋なレストランなど、どれもこれも一度は覗き込みたくなるようななかなか味わい深い伝統を感じさせる店々が絶えることなく続いております。
落ち着いた雰囲気と履物にやさしく当たる小石を敷き詰めた黄土色の地面、どこまでも続く白壁とこげ茶色の古い柱の家々との調和。
しかしこの「ならまち」も、バブル真っ盛りのころには町全体がつぶれかけていたのでした。商店街には人もいず、老人ばかりが店番をしているただ古いだけのほこりをかぶったような死にかけた町。土地を売ってはどうかと迫る大資本の誘いにふらふらと吸い寄せられる地主たち。打開策もなく、次第に赤字を膨らませ、沈みつつある当時の町は本当にあと少しであわやブルドーザーで壊され、マンション群に取って代えられようとしていたのです。
こうした状況に立ち上がったのがこの町の若手企業家たちでした。彼らはこの「千年を超える歴史のかもし出す町の力」を生かし、現代の中で国民が求めているものに結びつく道は何か、観光とは金を落とさせる遊びだけの空疎な賑やかさではない筈だと考えました。一度来ればまた来たくなるような懐かしさの漂う世界。人々の暮らしと観光の調和、それは歴史が人々の生き生きとした暮らしの中に息づく町づくり以外にないのではないかという道を彼らは探り出したのです。
そうした若手企業家たちの行動の根っこには大規模な資本と政治の結びついた巨大な力によってブルドーザーのように町を作り変えようとする権力的操作への抵抗する気持ちが間違いなく存在したのです。
今、この町には休日になると外国人も含め全国各地からの旅行客の姿がどの辻にも溢れるほど続いています。若手企業家たちの挑戦は文字通り賭けでしたが「ならまち」はこの挑戦で蘇ったのでした。「ならまち」とは新しく生まれ変わった町につけられた名前です。そしてそれはほんの10年ほど前の出来事だったのです。
ところでこの「ならまち」の南端の位置に「おかたに病院」があります。岡谷病院は戦後小さな診療所として始まりました。
院長の岡谷実医師は戦争の末期、軍医としてフィリピン・ネグロス島(レイテ戦線)陸軍病院に送られていました。米軍の攻撃によって日本軍は退路を断たれ、全滅寸前の極限状況に追い込まれます。その中で岡谷実軍医は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に対し真っ向から反旗を翻したのです。彼は生き残った31名の傷病兵と衛生兵を引き連れて白旗を掲げ米軍に投降します。それは当時の状況の中で軍の方針に対し真っ向から反対する行動でしたがそれは同時に「命を救う」という医師としての良心をかけた精一杯の抵抗であったのでした。彼はその後、日本に帰国したのち共産党に入党し「ならまち」に岡谷医院を開設します。そして地域医療に後半の人生をかけたのです。
夜中であろうと、相手が貧しかろうと診療に出かける。ある時払いの催促なし。「人の命に貴賎はない」―それは戦争の地獄絵の中でつかんだ彼の哲学であったのでした。東大寺の管長さんや奈良女子大学長の主治医を勤める傍ら、興福寺五重塔の下に住んでいた乞食からの往診依頼電話にも応じていたということです。
こうして彼は奈良の「赤ひげ」・「往診の岡谷」といわれ、貧しく、清く、美しい生活を送る多くの市井の民に対し、深い感動を与え続けてきたのでした。
おととし新しく建て替えられた「おかたに病院」。その玄関に入ると正面の壁に病院設立の経過と故岡谷実医師の写真が掲げてあります。病院を訪れる年老いた患者の中にはその壁面に向かって手を合わせじっと感謝の念をささげる姿を見ることがあります。
「ならまち」には故岡谷実医師のファンが今も大勢います。いえ、「ならまち」ばかりではありません。白亳寺の住職、般若寺の住職や二月堂、その他の多くの社寺仏閣の管主やお坊さんたち、あるいは多数の文化人の方々等。
今「ならまち」には観光客がどの通りにも大勢訪れるようになりました。しかしこうした街づくりの成功の底流には地域住民の命と暮らしを支え続けた岡谷実医師の人としての良心に命をかけた生き方が、進取の気風と努力の営みが太い流れとして貫いているに違いないのです。
住民の暮らしと文化を守り、民衆の側から生気あるものを創造して行く、それは渡辺先生や小柴先生の追求してこられた地域住民大学の思想とも重なり合うものなのではないかと考えるのです。
なお、宮城(旧姓 岡谷)恭子さんは岡谷実医師の姪に当たることを添えておきます。             
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